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zoom RSS 「歴史捜査」 築山殿事件

<<   作成日時 : 2017/06/24 17:58   >>

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今歴史番組がとても多く、あんまり見てはいないのですが、ごくたまに見る事もあります。
この間は、片岡愛之助さん司会のBS番組「歴史捜査」で築山殿事件についてやっているのを見ました。

家康も築山殿も、双方哀れだな、と思いましたね。
どちらが悪いという問題ではなく、強いて言えば乱世が悪い。

とりあえず、信長の命令説は、ここでも否定されていました。
この説は、今はどちらかと言えば後退気味ですね。
今年の大河ではどうなるかな。
築山殿事件は信長のせい、遠江侵攻とかは家臣のせい、とかにならなければいいけど。
ただ、ちらっとネットで見ただけでよくは知りませんが、信長が築山殿と信康の首実検をしたとも聞いたことがあり、全く関係ないということもないかもしれません。

しかし、あんまり無理強いして「じゃああんたと縁切って武田と組みますわ」となったら織田も困るので、どうかなあ。
そもそも信長の命令で仕方なく、というのもあまりにも情けない話ですし。

出元がたしか「甲陽軍鑑」(だった気がする)ので本当かどうか知りませんが、長篠合戦の時にはけっこう家康も信長に強気な事言ってるようで(早く援軍出してください。こっちは金ヶ崎、姉川の時は命がけで戦ったのに。出してくれなきゃ武田と組んで攻め込みますぞ)、信長の娘婿なので相談くらいはしたでしょうが、少なくとも信長に命令されて仕方なく、は考えにくいですし、それで妻子を殺す上司についていきたいとは思えないでしょう。

この事件は、天正7年(1579年)、家康37歳の時。

番組内容ですが、信長命令説の出典元は、「三河物語」
信康の正室で信長の娘の徳姫が、信長に色々言って・・・(夫が粗暴である、姑がイビッってくる。こいつら、パパを裏切って武田と通じようとしてるみたいよ)といった感じ。
「三河物語」は、それほど信憑性のない史料というわけではないのですが、徳川家臣(大久保氏)が書いたものだし、この件に関しては、どうだろう、といったところ。

江戸寛永年間に書かれた「当代記」では、信康は信長の娘婿でもあるので、一応相談に行ったところ、信長は「家康に任せる」と言った、とある。

「信長公記」ではどうかというと、一口に「信長公記」といっても様々なヴァージョンがあり(太田牛一もけっこう何度も手を入れているようですし、多くの写本が出回っている)、普通に考えて古いものほど当時に近く、正確だろうと考えられる。

で、新しい元禄12年のものは、この事件そのものが書かれていない。
真ん中頃の江戸初期あたりのものには、「不慮ニ狂乱」、つまり信康が急におかしくなった、とある。
そして最も古い(後でこの文章読み返していたら、最も新しい、と間違って書いていた。すみません。最も古い、です)、安土日記と呼ばれるものには「逆心」つまり謀反、ということばが出てくるのだ。
信康(とその家臣団、そして築山殿)による家康に対する謀反、これが真相であろう、と。

事件より4年前の天正3年(1575年)、「三河物語」によると、大賀弥四郎という人物によるクーデター未遂事件がおこっている。
この大賀弥四郎とは、岡崎町奉行だった大岡弥四郎とほぼ確定している。
この事件では、信康の重臣の半分くらいが関わっており、信康が知らなかったとは考えにくい。
これが後の事件に繋がってくる、というわけだ。

当時の状況としては、家康の浜松組と、信康の岡崎組との対立があった。
徳川分裂の危機。
その背後には、武田が大きくかかわっていた。
岡崎組は、武田の勢いに押されていて、織田ではなく武田と組んだ方がいいという目論見があった。
つまり長篠合戦以降も、武田は勢いがあったのだ。

信康と徳姫の不和もあったとみている。
「松平記」には、信康は粗暴な性格だったとある。
徳川方の史料なので鵜呑みにはできないが。

そしてこの事件についての数少ない貴重な一次史料、
「家忠日記」
西三河の国衆で、石川数正の家臣だった松平家忠の日記。

家康から、西三河の国衆は信康の所に詰める必要はないと言われたり、家康が岡崎組を警戒している様子が読み取れる。
また、築山殿が天正6年に、家忠に手紙を出している事も書かれていて、こうした立場の女性が家臣に直々に手紙を出すのは、かなり異例な事。
築山殿も関わっていると言わざる得ない。

家康も事件の二か月前に、仲直しのために信康の所に赴いたり、最悪の事態を避けようとしている様子も読み取れるが、結局上手くいかず、最悪の事態となった。

家族同士の殺し合いは戦国ではよくある事とはいえ、兄弟間が多い。
ましてや女性である正室を殺害したなんて、ちょっと他に知らない。
ここに、戦国の「女は口を出すな」、女性は本名すら表に出ないという意味が透けて見える気がする。
単なる男尊女卑ではなく、殺す事になるという事態を避けたいから、という事情もあったのではないか。

結婚当時は、今川重臣の娘だった築山殿の方が当時の家康より立場が上で、そうした事もマイナスに働いたのかもしれない。
家康はその後、賢女と言える人も側に置いているが、これ以降は必要以上に口を出させない気配りもしていたと思う。

家康は、信康と築山殿を、手厚く葬ったり、供養したりしている。
井伊直政を厚遇したのは、本人を気に入ったというのもあるだろうけど、築山殿の母親が井伊の人間だった事も関係しているだろう。
正室と嫡男を死なせたことは、家康にとって人生最大の痛恨事であり、黒歴史であり、トラウマともなってであろう。

後に家康は神格化されるが、時に冷徹な判断も下さねば、天下どころか生き残ることさえ不可能であったのだから、あまりな美化はそもそも無理がある。
黒くない戦国武将などいるはずがない。

築山殿がどういう人だったか、今では知る術もない。
悪女説やら色々あるけど、ああいう死に方した以上、よく書かれるはずもない。
信康も同様。
築山殿は、家康が今川から離反して独立した事で両親は死に追いやられているし、夫とは別居状態、織田方である姑とも嫁とも上手くやれず、不憫な人ではある。

家康と、信康や築山殿、どちらが悪いとか、平和な時代に生きる自分が、批難する筋合いもない。
こういう犠牲を出した以上、家康としては何が何でも生き延びる、勝者側になる、という執念を持ったのではないかと推測する。

家康の天下取りスイッチがいつ入ったかは知りませんが、この事件は大きかったと思います。
義信事件、秀次事件は、後から見ると武田、豊臣滅亡の遠因の一つとも捉えられてる向きもありますが、築山殿事件は、むしろこの痛恨事をバネにしたのではないかと思えるあたり、さすが家康です。
全て結果論ですし、考え方によりますけどね。

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